町の飲み屋で出会ったその男は、何か月かの交流の後、自宅へと招いてくれた。
ごくありふれたワンルームマンション。あまり騒いでくれるなよと前置き、我々は酒と肴を並べた。
夜も更けたころ。酒を大いに飲み、普段よりも上機嫌に出来上がっていた彼は、ふとこちらを探るように見た。長い前髪の奥から暗い色の瞳がのぞく。
数秒の沈黙ののち、これは絶対に他言しないでくれよ、と言った。仰々しくこちらに背を向け、シャツをたくし上げると、そこに。
作り物ではない。絵でも彫り物でもない。本物だとわかった。
「触れても?」
「失礼のないように」
硬質な手触り。空気の流れがある。一枚のドアの向こうに、大きな空間が、人ひとりの存在感を超越して感じられる。
私はドアをノックした。ドアであればこそ、ノックが必要だと思った。音が響く。やはりここには、部屋が。
尋ねずにはいられなかった。
「中には、何が?」
男の目には恍惚の色が浮かぶ。じっとこちらを見ている。
「…何が、とは不敬だ。こちらに、こちらにおわすのは、ああ、なんとやんごとなきお方、私の、私の、
男が言葉を言い終わる前に、私の手はドアにかかる。
開く。
男の目がじっとこちらを見ている。
笑った。
「ようこそ」
男のものではない声が、聞こえた気がした。
私は、そこで。
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くわとろ
へえ~ここがオーストリアの首都か、ちょっと入ってみよ ウィーン
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